文才の僧「長辯」の活躍と中世深大寺

ところで、当山の来歴をたどる上で貴重な資料が残っています。室町の初期、深大寺には文筆に秀でた僧「長辨(じょうべん)」が住し、深大寺のみならず広く多摩川各地の社寺豪族の勧進、施入、祈願、諷誦を依頼されては大いに筆を振るいました。その文集が『私案抄』です。京都曼珠院には『私案抄』から十一編が収められた『勧進帳彙(かんじんちょうい)』があり、信長焼討後の叡山の堂塔再建運動を起こすにあたって、『私案抄』を参考にしたことが窺い知れるのです。

この長辨に関しては、現本堂の本尊、宝冠阿弥陀如来像胎内に重要な墨書があり、長辨が永享八年(一四三六)にこの像の修補を行ない、法印という僧階に叙せられ、深大寺の第五十二代住職となったこと、また当時の深大寺には、天台止観の修行道場である常行堂が存在していたことが判明しました。
はたして当山の寺運盛んなりし時について『縁起』には「十二の塔頭(たっちゅう)無常道場・別所等はしはしありて顕密の法伝わり、いよいよ昌み、いよいよ尊ぶ」とあります。今も深大寺周辺には御塔坂、絵堂といった地名が残されています。

一方深大寺の歴史は苦難の時代も多く、『縁起』には鎌倉武士の一子が寺の仁王尊に呑まれたという事件が起こり、怒った一族が寺領を略奪し、堂舎を破斥したことが伝えられており、また野火により正長年中(一四二八頃)そして天文年中(一五五〇頃)にも伽藍を焼失したと伝えていますが、この衰亡した深大寺を歎いた世田谷の吉良(きら)家は寺領の寄進、伽藍(がらん)の再興を行ないました。吉良家は小田原北条家と親しき関係にあり、武蔵の諸郡を領した豪族でありましたが、前述の長辯『私案抄』に「世田谷吉良殿修諷誦章」があるように、深大寺の外護者としての深い結びつきがあったのです。深大寺には永禄四年(一五六一)の北条家朱印状も現存しています。

やがて小田原北条家も吉良家も亡んで、またも深大寺は存亡の危機を迎えますが、徳川家康公より吉良家の先例にならって領地の寄進を受けます。すなわち深大寺郷の内に五十石の地が与えられ、徳川時代の深大寺はその配下に末寺四十余ヶ寺を擁し、多摩川流域の中心的寺院として繁栄してゆくのです。

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